先のブログを少し補足しておきたい。
大澤真幸は、『現実の向こう』のなかでこのように書いている。
しかし、贈与そのものが、より過酷な差別を生み出しうるのです。贈与は、受け取り手の送り手に対する負債感を媒介にして、受け手と送り手の間に支配・従属の関係をもたらすからです。しかし、僕の考えでは、贈与が直接的であればあるほど、贈与がもたらす負債感を小さなものにすることができるのです。
この例として、「ペシャワールの会」がアフガニスタンで現地の人と一緒に井戸を掘っている例をあげている。現地の人達に近接して、直接的に援助しているから、負債感が減るのだという。
しかし、これは本当だろうか。直接、井戸を掘ってあげたときに、やはり負債感は残るだろう。ここで重要なのは、「一緒に」ということだろう。そして、現地の人達と一緒に、地域という〈場〉に贈与したからこそ、負債感が生まれなかったのではないか。
贈与の宛先は重要である。正確に宛てられた贈与は、かならず返礼を期待されて行われる。負債感を期待して行われるのである。しかし、〈場〉を経由した場合はどうだろうか。井戸をつくったとき、その井戸は、直接渡されるからではなく、その贈与の受け取り手が不確定だから負債感がないのではないか。東浩紀のことばでいば「誤配」されることが前提となっている。偶有性が生まれるのである。
誰が受け取るかわからない。とすれば、返礼も期待できない。そのなかで行われる贈与は、清水先生の言葉でいえば〈与贈〉である。
直接性ではなく、〈場〉を経由することによる偶有性にこそ、与贈の本質がある。