デュシャンは便器に署名しただけの「泉」という作品を発表した。ここに、他と違うものであるという意味での「オリジナリティ」はない。既成品をつかったこうした作品をデュシャンは「レディメイド」と呼んだ。オリジナリティを絶対とする常識への挑戦がそこにあった。
そのデュシャンはさらに、モナリザにヒゲを描き加えた「L.H.O.O.Q」を発表する。この作品について「盗用」という人はいないだろう。「泉」もそうだが、そこに作品のコンセプトにおけるオリジナリティがあるからだ。
L.H.O.O.Q. - Wikipedia, the free encyclopedia
デュシャンの作品をさらに発展させたのがアンディ・ウォーホルで、「キャンベルのスープ缶」がその代表例だろう。
Campbell's Soup Cans - Wikipedia, the free encyclopedia
このデュシャンやウォーホルの作品以後、作品の善し悪しを語るときに安易に「オリジナリティがない」という言い方はできなくなった。少なくとも「形が似ているからオリジナリティがない」というような話は、大量生産された便器や缶さえも「オリジナル作品」となる以上、説得力を失った。そこに批評性があったり、新しい文脈の創造が行われていれば、レディメイドであってもひとつの立派な「オリジナル」作品なのである。
参考
「コピーの時代デュシャンからウォーホル、モリムラヘ | 日本近代美術史サイト
こうした流れがいきついた先のひとつとして、コミケやニコ動などでのn次創作の連鎖がある。僕はまったく詳しくないけれど、ここでは、ときにオリジナル以上の評価をn次創作が得ることもある。
今回のオリンピックのエンブレムについて、このエレメントの展開はこうしたさまざまにコピーされ複製され反復されていくデザインとして、設計されたものなのだと僕は理解している。つまり、これはどんどんコピペされ反復、増殖されていくことを期待されて作られたものだろう、と。
そのひとつの例として、このGeneratorがあげられる。つい自分の名前をエンブレム書体で生成してしまう。これまでのオリンピックのエンブレムの使用範囲を超えて、広範にこのフォントが流通することによって、オリンピックを盛り立てていこうとしたその意図はよく分かる。
今回起こった不幸は、こうした展開可能な、つまり容易にコピペが可能なエンブレムにしたことで、かえってその起源(オリジナリティ)についてさまざまな詮索がされてしまったことにある。しかし、オリンピックのエンブレムとして、ここ数年の流れから新しい展開を生み出し、それが広がりの可能性をもたせているという意味で、十分に「オリジナル」なのだ。
残念ながらオリンピック組織委員会に問い合わせをしてNGとなったそうだけれど(問い合わせを受ければ、そう答えざるを得ない)、ゼブンイレブン武蔵小金井本町二丁目店のおでんPOPは、ある意味、正しいエンブレムの展開例だったのかもしれない。(まあ、ちょっと悪意に満ちてるけど。)
日本のデザインのミニマルなアイコンとして、このエンブレムがさまざまに展開されていく。現状、残念な流れにはなっているものの、この方向性について、僕は120%支持する立場です。