そもそもの「目的」に立ち戻る
今回の騒動には既視感を覚える。広告代理店に努めていたときに、よくよく起こりそうなことでもあるのだ。僕は営業部門で数年働いたが、そのときにもエンブレム問題のミニチュア版のようなできごとも、なくはなかった。振り返ってみると、広告代理店の営業というのは、ここで何度か触れている反知性主義の立場をとっていたと思う。いや、知性主義と反知性主義の橋渡しの役割を果たしていたんじゃないかと思った。
ということで、エントリーを書いてみる。
さて、広告代理店の営業として、クリエイティブ部門からあがってくるアウトプットに対して最初に考えるのが、
・クライアントがどう考えるか
である。
これは、もうしょうがない。クライアントと揉めたくないということではなく、クライアントの意向と違っていてもこちらのほうが良ければ、それでいく。けれど、クライアントのOKが出ない限りには世の中にでないのだから、もし説得できないということであれば、断念せざるを得ない。極めて現実的な判断になる。
ここでちゃんとクライアントを説得できないと、とんでもないものが出来上がる。たとえば今回のエンブレムでいえば、「黒はいや、葬式みたい」「じゃあ、江戸紫で」なんて話になると、こんなことになる。
こういう結果をみるたびに、冷や汗。「やっちまったなー、営業はなにやってるんだ」と思ってしまう。職業病みたいなものだ。
そもそものデザインの目的にまで立ち戻って、説得する。クライアントも、担当者からその上の決定権のある人までさまざまで、このとき担当者と一緒に共闘することも多い。
ひるがえって、このオリンピックのエンブレムの目的はなんだろうか。実はここがいまいち、見えてこない。このオリンピックをどのように見せたいのか、実は誰もわかっていない。ブランドの方向性が見えないのに、ブランド広告やろうとしているみたいな感じになっている。だから、「1時間でつくった」というエンブレム案たちも、しっくりこない。
これをはっきりさせるためには、オリンピックが決まった経緯に遡るのが早い。大きな要素としてあったのは(放射能というマイナスも含め)、震災からの復興だったはずだ。ちまたにあふれているお祭り的なロゴにいまいちピンとこないのは、復興に関わる緊張感ではないか。(復興に向けての「力強さ」という意味で、今回のエンブレムが好ましいと思っている。)
で、その次に、というか、これはほぼ同時なんだけど、
・消費者がどう感じるか
が頭に浮かぶ。
今回のオリンピックのエンブレムの話で言えば、「暗い、葬式みたい」みたいな素朴な反応を想定していく。デザインが常に意図通り受け入れられるわけではない。今回みたいな拒絶反応がでないか考える。いくらかっこいいものを作っても、それが商品のブランディングや売上につながらなければ意味がない。その意味で、反知性主義的な立場をとることになる。専門家の意見を一度、疑ってかかる。素人の目線で捉え直すのだ。
今回のエンブレムで、「デザインの専門家がなんと言おうと、庶民がどのように受け取るかが最も重要だ」という話が出ているけれど、これなんか広告代理店の営業が心のなかで思っていて、ときどき言葉に出してしまう思いだ。
しかし広告代理店の営業は、一方でデザインの専門家にしかわからないミリ単位のデザインの「調和」みたいなものがあることも知っている。(こういう専門知識への信頼、信仰みたいなものがここでいう知性主義。「頭がいい」という意味じゃないです。)
扇のオリンピックロゴが評判になっているけれど、専門家から見れば「汚い」となる。中島英樹さんが言うのだから、そうだと思う(知性主義)。僕が見ても「うーん」となった。短時間でつくったからしょうがないけど、雑な感じ。デザイナーたちがこういうとき、仮にいまいち分からなくても、広告代理店の営業は「自分にはわからない世界があるのだ」と謙虚になる。こういうことについて、今回の「庶民」をかたる人たちよりも謙虚だ。「デザインについて知らないことがある」ということを知っているからだ。
今回びっくりするのが、「庶民感覚」をいう人たちの自分のセンスに対する絶大なる自信である。しかしこれは当然なのである。反知性主義には「権威を認めない」というところからスタートして、最終的に「俺の庶民的な感覚が一番の権威だ」となってしまうところがあるからだ。無知というのは、自分が無知であることを知ることもできない。だから強いし、破壊力がある。その破壊力が適切に使われたときには、閉塞した業界に大きな風穴を開ける。ときにイノベーションと呼ばれる大きな変革も起きる。
しかし、だ。ピカソの絵を見て「この絵に何の意味がある、子ども騙した!」と指摘することも重要だけれども、「ピカソの落書きのような絵にもなにか価値があるのかもしれない」と自分の感覚を疑うことも、同じくらい重要だ。これは、「ほんとうにそうなのか?自分のセンスは正しいのか?」と、自分の無知に思いを馳せる想像力である。
話はやや脱線するが、たとえば能などは「庶民にはわからない」と一蹴されかねない芸能である。「俺がわからないから無意味である」と言い切ってしまう「傲慢さ」が、反知性主義の課題だと思う。と同時に、そうした「傲慢さ」に対処するすべのない知性主義の課題でもある。
新しいデザインを育てる「時間軸」
さて、このときに広告代理店の営業が考えるのが、デザインの時間軸だ。でてきた当初は「変だ」と言われて、でも結局定着するデザインも多い。新しい表現になればなるほど、受容には時間がかかる。たとえば会社のCIなんかは、かなり長い時間軸での話になる。今かっこいいものを選んだら、二年後には古くなってしまう。
今回のオリンピックのエンブレムは、亀倉雄策のデザインを参照しながら、同時に、いわゆる琳派などの平面性を強調した日本的なデザインになっている。(流行のフラットデザインを採用したという話もあるけれども、もう少し射程の長いものだと思う)
今回のオリンピックのエンブレムの決定に際し、審査委員代表の永井一正さんはこうコメントしている。
この度決定した佐野研二郎さんの2020年の東京オリンピック・パラリンピックのエンブレムも同じように、その累積効果によって国内外に好感をもって広がることを願うとともに、より良くこのエンブレムを育てていくのは皆様の力なのだと思います。前回がそうであったように、これを契機として日本のデザインが未来に向かって更に飛躍していくことを期待しています。
未来に向かって更に飛躍する。過去を受け継ぎながら未来への時間を歩もうという着想をどうすれば共有できるのか。今更ではあるけれども、エンブレムの発表のとき、もう少しこの時間軸についての丁寧な説明(由来と未来)があったならば、と思ったりもする。