鈴木大拙は、日本の思想の中心に禅をおいたけれども、どうもそれだけでは説明しきれない、草木国土悉皆成仏をあわせないといけないのではないかと指摘する。
梅原さんのこうした指摘と、縄文・蝦夷文化への興味関心はつながっている。弥生の文化は、たとえば弥生土器の機能美から考えても禅と近い。一方の縄文文化は、火焔式土器のような大胆な装飾が特徴であり、それは里山、里海での自然との共生を思わせる。
また、長年取り組まれている怨念の話も、きれいに整理された歴史からこぼれ落ちたエネルギーを表出させるような活動であり、縄文的なものを感じる。『古事記』を縄文文化と対照させながら読み解いたこの本も、非常に興味深かった。『古事記』には、支配層となった弥生人と、圧倒的多数であった縄文人の葛藤が、そこかしこにあふれている。
能について詳しく書ける立場ではないけれど、たとえば『土蜘蛛』に登場する土蜘蛛は、抑えても抑えきれない縄文的衝動のように思える。頼光に切られる土蜘蛛には、梅原さん的な怨念を感じる。能はわざわざそうしたものを登場させて、鎮めているのだろう。
さて、僕のルーツは長野であり、森に囲まれた長野は縄文文化圏だった。諏訪大社の御柱祭は、きわめて縄文的なエネルギーに満ちている。一方で大学時代を過ごした京都は当然、弥生的であり、実際の人生おける割合で言えば、弥生文化にさらされていた期間がよっぽど長い。
しかし一方で、縄文的なエネルギーの噴出にもさらされてきた。江戸歌舞伎などはそのひとつだろう。ニューヨーカーを熱狂させた故・勘三郎の踊りは衝撃的だった。その後、震災を契機に縄文文化圏である東北や沖縄とのご縁が生まれた。縄文的なものに触れる中で、草木国土悉皆成仏を日本の思想の柱として、ある意味、表沙汰にしていかなくちゃだめだと思うようになった。
先日、オランダからきたイノベーションコンサルタントのハイスからは、「日本独自のメソッドを」と宿題をもらった。Presentation ZENにならって、Innovation ZENも確かにあるだろう。しかし、それではどうも足りない。草木国土悉皆成仏を軸としたイノベーションメソッドが必要だし、それを日本から提示することが重要だと思う。荒々しいまでのエネルギーを備えた、事業生成の論理だろう。