ベイマックスに出てくる風景は、サンフランシスコと東京を混ぜあわせたような不思議な風景。
マーベルコミックの原案では6人の日本人スーパーヒーローだった設定を変更して、PCに適合させつつ、その結果キャラクターがさらに立ったという指摘もされていたが、まさにその通り。今の時代に、ディズニーがまさか6人の日本人を主人公にするわけも行かず、その制約をうまく利用していたし、その利用の仕方が日本人にとっても違和感がないだけでなく、クスッと笑えるのもすごかった。文化の融合が、軽やかに、伸びやかに行われているのだ。
ベイマックスの「政治的正しさ」とクールジャパン - Togetterまとめ
そのなかで気になったのが、主人公のヒロ・ハマダの両親が亡くなっているという設定。日本版のコミカライズでは母親が生存しているという(ベイマックス - Wikipedia)。この両親の不在が、映画の中ではそれほど重いものとして描かれていないのが、かえって興味を引いた。「重い親の存在」という要素が、この軽やかな映画の重心を低いものにしてしまいかねない。それを避けたのではないかと思う。叔母のキャスは実の親ほどには、主人公たちの生き方に立ち入らない。
ベイマックスというふわふわなマシュマロのような主人公に象徴されるように、重い「正義」のような要素に引っ張られないような計算された軽さが、この映画の魅力だろうと思う。