LIFEHACK STREET 小山龍介ブログ

小山龍介公式ブログ

大坂なおみのロボットモードから学ぶ集中力の高め方

大坂なおみの全豪オープン決勝。第二セットの最後、1ポイントでも取れば優勝できるというチャンピオンシップポイントを3回握ったが、そこから逆転で落とした。大坂選手は油断したと思う。この試合で唯一の場面だったと思うが、チャンピオンシップポイントのワンプレーの中で、相手選手のリターンを褒めた。褒める余裕があった。なぜなら、ほぼ勝利が間違いなくなったからだ(そしてそれは、錯覚だった)。

この余裕を見せた大坂はその後、次々とミスを重ね、そのミスに対してボールを叩きつけて悔しがった(このビデオの1:30ごろ)。セットを落として感情を露わに、泣きながら控室に戻っていった大坂なおみ選手を見て、「ひょっとして負けるかも」と思った人は僕だけではないはず。

youtu.be

しかしそこから驚異的な集中力を見せる。第3セットはほとんど心配することがないほどのプレーだった。もちろん客観的には競り合ってはいたが、勝負はついていたように見えた。点を取っても失っても、またギリギリのチャレンジが成功しても、大坂なおみ選手は第3セット、ポーカーフェイスを崩すことがなかった。

それは本人の言葉でいえば、「ロボットみたいに命令を実行していただけ」ということになる。

3本のマッチポイントを逃して第2セットを落とし、迎えた最終セットは「空洞だった。ロボットみたいに命令を実行していただけ」。それでも勝利をもぎ取った。

 

www.nikkansports.com

第3セットの開始直後、ポーカーフェイスの大坂選手を見て解説者が「落ち込んでいるとは思いますが、その分エネルギーを出さないといけないです」と解説した。「ロボットみたい」になった大坂選手は、一瞬、「もう試合を諦めたのか」というような静けさをたたえていた。それが諦めではなかったことは、その後のプレーの質で証明したが、あの一瞬は本当に不思議な感じがした。僕もまた、「あれ? 勝ち負けはどうでもよくなったのかな」と錯覚した。

いや、錯覚ではなかったと思う。たしかに大坂選手は最終的な「勝ち負け」をすっかり放り出したのだと思う。「空洞」になってプレーの一つ一つを命令のようにこなしていった。そこで発揮された集中力は、しかし結果として全豪オープンという大きな舞台での勝利を、しっかりと手繰り寄せた。

大坂なおみ選手から学べる教訓があるとしたら、こうだ。結果を気にする段階で僕らは負けている。結果への執着を手放した先に、しかし結果がついてくる。迷ったときほど、目の前の命令だけをこなすロボットになれ、ということだろう。

AI時代における感性・悟性・理性

18世紀、経験論が主張されるようになると、モノそのものがそこに確かに存在しているかどうかも疑問が付されるようになった。デカルト以来、方法的懐疑が徹底されるようになり、確かに渡しの目の前にあるように見えるコーヒーカップでさえも、その存在を疑うようになったわけです。たとえば、夢のなかでみたコーヒーカップは実在しない。それと同様、今こうして経験しているコーヒーカップも、実在しない可能性を完全に排除することはできない。

合理論を信奉していたカントは、こうした経験論の考え方に衝撃を受ける。のんきに、「神とはなにか」などと議論している場合ではない。経験できるものでさえその存在を疑うわけで、それはもちろん、直接的に体験できない神などは、存在しようもない。それはまだ宗教の影響力の強かった18世紀には、とほうもない話だった。

カントはまず、経験論のいうように経験できるものだけを語るべきで、経験できないものについては安易に語ってはいけないのだという切り分けを行う。なぜなら、経験もできないものについては、なんとでも言えてしまうからだ。ウィトゲンシュタインはそれを、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と言った。

そのとき、カントは悟性というはたらきを設定した。感性的に感じとったものを統合するはたらきである。ものをみたときに、その色や形、素材感などを統合してひとつのものとして認識するとき、悟性がはたらいているのだと考えるのである。

物自体(語りえない)→感性→悟性→理性

そう悟性を設定したときに、AIはまさに悟性を担っているということがわかる。たとえば、高精度に風景を捉えるカメラセンサーは、まさに感性の器官であるが、今までのデジタル処理ではそれがりんごであるか、自動車であるか、はたまた猫であるか見分けることはできなかった。ディープラーニングによって、猫を猫として認識できるようになってきたというのは、コンピューターが悟性をもつようになってきたということになる。静止画だけでなく、動画で、音声で、触覚で、ものごとを「認識」するようになる、つまり悟性を持つコンピューターがわれわれと関わってくるというのが、われわれを取り巻くAI時代の情報環境なのである。

その意味で、ここで「悟性」が重要だという指摘は、不十分であるといえると思う。悟性でさえも、コンピューターが獲得する時代において、「悟性」が重要ということではない。

井上 AI時代に何が必要なのか問われると、結構多くの人は「感性」と答えたりするんですが、むしろAIってすでに絵画や音楽をつくれるので感性的な部分はある程度はカヴァーできている。わたしはむしろ「悟性」こそが大事だと思っています。それは考える力のことですね。いまのAIってたくさんの数値データから関係性を抽出することはできるけど、言語的な思考をしたり抽象概念を扱ったりすることが難しい。まだまだ数値化できないものが世の中にはありますから。思考力は人間ならではの能力だと思っているので、学生にもそこを磨いてほしいなと思っています。そういう意味で従来型の詰め込み教育は限界を迎えているといえるかもしれません。

wired.jp

AIは、過去のビッグデータからまなぶという意味で、基本的には過去を学ぶ仕組みである。そこでは、自分の獲得した悟性そのものへの批判的な言及はない。「ケーキ」という概念について、それを覆すような新しいケーキを生み出すことはない。AIが賞賛されるのは、ケーキらしいケーキをデザインするときであり、また、顔らしい顔を生成するときである。

f:id:ryu2net:20190110131648j:plain

irorio.jp

そうすると、カントの分類でいけば、理性こそ人間が発揮しなければならない領域だということができそうである。しかしそれはもちろん、かなり多くの留保が必要になる。カントが感性や悟性にこだわったように、理性を暴走させることなくAI時代の悟性装置を使いこなした上での理性であるべきなのだ。

『アリー/スター誕生』にあって、『ボヘミアン・ラプソディ』にないもの

『ボヘミアン・ラプソディ』が絶賛されているけれど、僕はあまりのめりこめなかった。編集もたくみで、飽きさせない映画だった。また役者もよかったし、バンドメンバーのキャラクターもよく表現されていて、人間ドラマとしても楽しめた。けれど、なんだか感動しない。「ア~オ」だって、正直、微妙な感じだった。これで泣かせるの、と、戸惑った……。

なぜか? その理由が、『アリー/スター誕生』を見てわかった。ひとえに、歌の説得力だ。

レディー・ガガの歌の力が、これでもかと伝わってくる。ネタバレだからかけないが、ふと口ずさむように歌う歌、その瞬間だけで涙がでる。

『ボヘミアン・ラプソディ』は完コピが魅力の映画だったけど、本当は完コピしちゃいけなかったのだと思った。ガガ演じるアリーの、一度目の衝撃には、絶対に追いつけないのだ。

wwws.warnerbros.co.jp

存在を、「意味の場」における現象と捉えることの意味

マルクス・ガブリエルの「新しい実在論」のポイントは、存在というのは常に、意味の場において現象するというところにある。そして、意味の場(Fields of sense)は無数に存在しているが、それを包括するような全体を示す「世界」というものは「存在」しない。世界が存在するとなると、世界が現象するための「意味の場」が要請されて、それは世界に含まれないことになってしまう。存在を、意味の場における現象と定義した場合、世界は存在しないということになる。

世界は存在しないという言明が意味を持つのは、たとえば科学において無批判に「世界」(科学的世界観における)が設定されてしまうことで、そこにいちづけられない(すなわち別の意味の場所に現象している)存在が、存在しないこととされてしまう危険を回避できることにある。

カントは、直接経験できない物自体について語ることの限界(理性の限界)を設定したが、それは一方で、窮屈なことになる。実際には、架空のユニコーンやドラゴンについて語ることはできるはずで、そこでの理性の限界は、たとえば科学的理性の限界であると言ったほうがいい。そこではたしかにユニコーンやドラゴンだけでなく、国民主権や神道、エスカレーターの右側通行などは、意味あるものとして「存在」しないかもしれないが、それは、意味の場が違うからなのである。

新年のご挨拶 2019年

あけましておめでとうございます。

昨年は、京都造形芸術大学の博士課程に進学しました。そこでいろいろなしげきがあったのですが、大きくは二つ。ひとつが、浅田彰先生の授業。これが刺激的で、いまさらながらに哲学の勉強を再開しました。デカルトを読み、カントを読み、ウィトゲンシュタインを読み、新しい実在論に向かい、と、ほんと新鮮な気分です。いまさら勉強しても、という声もありますが、もうそこは振り切って読み進めてます。

もうひとつ、制作に向かったことも大きな転換でした。写真にまじめに取り組みはじめたのが9月、さまざまなレッスンを受講して、12月にはグループ展に出展もしました。写真とは、光をうつしとるもので、それは光の反射であり、一方でエネルギーの反射。どのような場所でどのようなエネルギーが放出されているのか。新しい実在論のマルクス・ガブリエルがいう「意味の場」を、写真は写し取っているといえるんだと思います。

2019年のテーマは、「制作」です。博士課程の研究である「文化財を使った地域活性化」の糸口としても、「制作」ということを掲げたいと思っています。世の中をどのように認識するか。これは受動的な話のようでいて、いや常に私たちは積極的に見えている世界を「制作」しているわけです。そしてその制作は、どのような意味の場において行われるかが重要である。地域という場においてどのような制作ができるか。これが「地域活性化」の芸術的な側面での意味だと思うのです。

f:id:ryu2net:20190107192459j:image

美大の提供するMBAの目指すもの

クリエイティブの力で世界を変えようとしているビジネススクールがある。美術大学であるセント・マーチンズである。

www.cinra.net

記事の中で、ジェレミー・ティル校長が次のように語る。

アートの役割は、変化していく世の中で、世界に議論を生んだり、外の世界や分断されたものの間でコラボレーションを生んだりしていくことです。単に実用的なもの、美しいものだけがアートなのではなく、新しい未来、新しいコラボレーションを生み出せます。政治やビジネスが苦手にしていることが、アートには可能なのです。

 ビジネススクールで教えながらいつも模索しているのは、まさに新しい未来の出現のさせ方、新しいコラボレーションのありかた。

私自身、授業に組み込んでいるのは、

  • ワールドカフェによる未来の創出
  • シナリオプランニングによる不測の未来への対処
  • ビジネス・インプロヴィゼーションによるアイデア創出と自己組織化
  • ビジネスモデル・キャンバスとバリュー・プロポジション・キャンバスによる構造的把握
  • システム思考による動態的な事業設計
  • アクションラーニング(質問会議)と学習する組織づくり

といったテーマである。あらためてこうしたコンテンツをMBAに取り入れていく必要があると再認識した。個人的には、ビジネススクールでアート教育を取り入れるだけでなく、美大でのビジネス教育の導入にも関わっていきたい。