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LIFEHACK STREET 小山龍介ブログ

小山龍介公式ブログ

観客に態度決定の契機をもたらすドキュメンタリー性と偶然性

芸術史講義(近現代4)1~15章を通じて学んだなかからテーマ(作家、作品、事象など)をふたつ選び、それぞれの特質と相互の比較・関連について、あわせて1200字程度で述べてください。

 

初期の映画が、リュミエール兄弟のロケーション撮影とメリエスのスタジオ撮影というふたつの流れから始まり、ロケーション撮影はその後、ネオレアリズモなどの表現を生み出しながら、ドキュメンタリー映画というカテゴリーを形成していった。事前に準備された脚本に基づき、緻密にデザインされた劇映画とは異なるリアリズムを持つことになった。

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リュミエール兄弟『ラ・シオタ駅への列車の到着』

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メリエス『月世界旅行』

 

『極北のナヌーク』は、ナヌークたちと強固な信頼関係を築いた上で撮影されたドキュメンタリー映画の傑作である。しかし、そこでドキュメンタリーならではの「真実」だけで描かれたのかというとそうではない。演出や虚構が演じられていた。ロケーション撮影されてはいるものの劇映画といってもよい虚構性がある。

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ロバート・フラハティ『極北のナヌーク』

リアリズムと虚構の関係については、多くの映画監督が強く意識していた。ネオリアリズモのロッセリーニに続くイタリア人映画監督のフェデリコ・フェリーニは、映画監督の撮影現場を描く『8 1/2』では、映画の中で映画を作るというメタシネマの構造をもたせる。ネオリアリズモとは逆に、虚構を虚構としてさらに強調することによって別種のリアリズムに到達しようとする意図が感じられる。映画製作に行き詰まった主人公が制作を断念した途端、新しい映画の構想が湧き上がる結末は、リアリティを放棄した先に新しいリアリティが見えてきた構造とパラレルであるように見える。

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ロッセリーニ『無防備都市』

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フェリーニ『8 1/2』

 

音楽における偶然性の取り込みもまた、映画におけるドキュメンタリー性やリアリティと通底する問題をもっている。ジョン・ケージはあらゆる偶然の音を音楽的な契機として捉える。それはいわば音楽の「ロケーション撮影」である。『4分33秒』では、ただ時間の指定があるのみで、そこに何の手も加えず、その空間に起こる音を聞かせた。そこで問われているのは、作り手の作意ではなく、聞き手の聴く態度である。あらゆる偶然に意味を見出す能動的な聴衆の態度であろう。

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ドキュメンタリー映画には常に、撮影者の関与という問題がある。これは必ずしも、たとえばマイケル・ムーアのように、時に自分自身も画面に登場し主張をするといった関与だけを示すのではない。『極北のナヌーク』などでは、撮影者がいることによって、撮影される側がその期待に答えようとして(もしくは反発することによって)、虚構が入り込んでしまうという問題である。フレデリック・ワイズマンは、固定カメラによる長時間撮影と、ナレーション、テロップ、音楽を配した演出により、撮影対象への不関与を徹底した。なんの説明もされずに映し出される施設の様子は、見るものに「何を見るか」と問うてもいるように感じられる。ここで感じるとまどいは、『4分33秒』でのとまどいと共通するものだろう。ドキュメンタリー映画は、客観性を担保するものではなく、ここでは見るものに観客としての態度を問う映画なのである。

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ワイズマン『高校』

 

ドキュメンタリー映画のドキュメンタリー性、ジョン・ケージの偶然性の音楽は、いずれもそうした禁欲的な作者の態度留保と、その結果としての視聴者の態度決定を迫るものとして、その価値があると考える。

 

ワイズマンについては、こちらがわかりやすいです。

佐々木敦のTumblr - フレデリック・ワイズマン|リローデット!