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LIFEHACK STREET 小山龍介ブログ

小山龍介公式ブログ

発達という創造活動に導く「頭一つの背伸び」

  この二つの記事の続きです。

www.lifehack-street.com 

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 ヴィゴツキーが「頭一つの背伸び」と呼んだ発達過程はどのようなものなのか。ニューマンとホルツマンはそれをパフォーマンスと呼ぶ。自分でない人物を演じることによって、自分が何者かであるかを創造する活動だという。環境に対応するために学ぶというのではなく、環境に合わせて「演じ」ながら違う自分へと変わり、同時に環境も作り直し世界を転換させていく。ヴィゴツキーが取り組んだのは、こうした創造のプロセスであり、その創造のプロセスはソロではなくアンサンブルで行われる。このアンサンブルをパフォーマンスと呼んだのだ。

ホルツマンはさらにこれを「非パラダイム主義」だと指摘する。パラダイムは、行為よりも先に思考を優先し、思考によって行為が起こると考える。しかしここでパフォーマンスと呼んでいるものは、そうした思考優位の話ではない。従来の心理学からのパラダイムシフトは起こっているが、これは新しいパラダイムを提示してそのパラダイムに従って行為が変わるとするものではなく、思考と行為とを統合して考える非パラダイム主義なのである。

遊ぶヴィゴツキー: 生成の心理学へ

遊ぶヴィゴツキー: 生成の心理学へ

 

 

分析単位を「行動」から「活動」へと変えることで「成ることの理論」が生まれる

 この記事の続きです。

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心理学が「行動」を分析単位としてきたが、それは不十分だった。社会文化歴史性を無視することになるし、新しいものを生成する主体としての人間も無視してしまうことになる。行動を単位として研究することによって、人間を変わらないものとして扱ってしまうことになる。

「行動」に代わって、ホルツマンが分析単位としてあげるのが「活動」である。マルクスがそうしたように、個人を社会的存在と捉え、社会によって作られ、また社会を作り出す存在として、人間を「活動する者」と捉えた。

こうした活動は、社会を変え、文化を創造し、歴史を生み出す。そしてその社会文化歴史によって人間もまた変わる。活動により人間と世界が生成変化するのである。ホルツマンはヴィゴツキーの仕事を「心の理論(theory of mind)」ではなく、「成ることの理論(theory of becoming)と捉える。存在の状態ではなく生成に関わるものであり、心理学が「であるもの」の研究から「生成しつつあるもの」の研究に移行する基礎が与えられたのだと指摘する。

 

 

遊ぶヴィゴツキー: 生成の心理学へ

遊ぶヴィゴツキー: 生成の心理学へ

 

 

人間のサブジェクティヴィティー

名古屋商科大学の岩澤先生におすすめされた読み始めた『遊ぶヴィゴツキー』(ロイス・ホルツマン著)が面白い。

物理学が物質を、天文学が星々を研究するようにして、心理学は人間を研究することになった。こうしてきわめて容易に、心理学は人間であることのうち、もっとも魅惑的で重要なこと―人間のサブジェクティヴィティー(主体性、主観性:歴史性、社会性、意識と自己反省意識)―を、このような質を持たない対象のために考案された方法を適用するために放棄したのである。

ここでいう人間のサブジェクティヴィティーとは、客観に対する主観という二元論で捉えるものではない。意味生成活動の主体としての人間である。二元論を乗り越えるためにヴィゴツキーは、科学的探求の方法そのものを追求することになる。彼にとって、探求こそが人間独自の心理活動であり、それを研究するということは、とりもなおさず探求の方法論を研究することでもあった。

ちょっと読み進めてみます。

遊ぶヴィゴツキー: 生成の心理学へ

遊ぶヴィゴツキー: 生成の心理学へ

 

 

製品のデザインからディスコースのデザインへ

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人工物、すなわちデザインの対象は、製品から商品、サービス、コミュニティー、さらにインタフェース、マルチユーザーシステム/ネットワーク、プロジェクト、ディスコース(ディスクール)へと広がっていく。この軌道に従い、流動的で、非規定的で、非物質的で、仮想的な質に関わっていくことになるという。その結果、ひとつの解釈を導き出すような因果モデルから、複数の解釈が存在する言語モデルに置き換えられていく。機能的なメカニズムの生産から言語の構成的な使用へと移行するのである。

 

 製品レベルのデザインは、その有用性によって評価されるため、文化の影響が比較的小さい。「形態は機能に従う」という格言は、この製品レベルでのデザインの格言としては機能する。

しかし商品、サービス、コミュニティーのデザインとなると、制度化から逃れることができない。慣例や慣行、文化によってきまる。必ずしも機能には従わない。そこには機能としての質ではなく、象徴の質が関わってくるのである。民俗的で地域的な美学も考慮する必要が出てくる。製品レベルで通用した普遍性が、ここでは力を失っていく。

インタフェースのデザインは、相互作用性、ダイナミクス、自律性という3つの特徴をもつ。相互作用性とはアクションに対するリアクションがあるということ、ダイナミクスとは時間の経過にともなって変化、反応していくこと、自律性とはプロセスが完結し、そのプロセスのなかで自己学習が行われていくということを指す。自然な相互作用をもち、理解可能なインタフェース、さらにユーザーの行動を学習し、状況に対応していくインタフェースが考えられる。

マルチユーザーシステムとネットワークのデザインとは、一番わかりやすい例が道路標識である。多くのユーザーの行動を調整する仕組みである。インタフェースがユーザーと機械の一対一の対応だったのに対して、多くのユーザーのリテラシーやバックグラウンド、多様な関心や目的と言ったものに対応しなくてはならない。システムが提供する情報を、ユーザーに利用可能なものにし、多くの人にアクセス可能なものにし、さらにユーザー同士がお互い繋がり合うようにすることで、コミュニティが生まれる。

プロジェクトのデザインの特徴は、方向性である。マルチユーザーシステムが多様なユーザーの行動の調整に重きをおいていたのに対し、多様なプロジェクトメンバーの行動の方向付けを行っていくことになる。そこではナラティブ(物語)が重要になっていく。経営においてナラティブが重視される流れは、マルチユーザーシステムからプロジェクト型へと、そのデザインの対象が変化してきていることにあるだろう。

ディスコースのデザインとは、言説のデザインである。あるコミュニティーに帰属する組織化された話し方、書き方、行動の仕方である。近年の「デザイン思考」という活動は、デザインという言説そのものをリ・デザインしようとしている。概念の変革を担う。ディスコースは、一定の形式を守るようにという保守的な圧力と、そこから抜け出し新しいディスコースを生み出そうとする創造的な働きがある。

 

意味論的転回―デザインの新しい基礎理論

意味論的転回―デザインの新しい基礎理論

  • 作者: クラウスクリッペンドルフ,Klaus Krippendorff,小林昭世,西澤弘行,川間哲夫,氏家良樹,國澤好衛,小口裕史,蓮池公威
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  • 発売日: 2009/04
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言葉の「定義」というものの意義を高く評価するべきではない

 少し長くなるが、引用する。

プラグマティズム入門 (ちくま新書)

プラグマティズム入門 (ちくま新書)

 

 この思想(プラグマティズム:引用者注)は一般に、言葉の「定義」というものの意義を高く評価するべきではないと主張する。以下で詳しく見るように、私たちの知性が生み出した思想のレッテル、「何々イズム」や「何々主義」という立場が、思想それ自体としてはけっして確固たる定義をもたず、境界や輪郭がぼやけたものであり、さまざまな思想の「内容」「意味」「意義」というものは、その思想の名称にあるよりも、それが応用され、活用される場面で、具体的な利用の文脈の下でのみ、はっきり理解されるということが、この理論が主張するテーゼの一つの重要な柱であるからである。

 本書で引用されているパースの文章もあげておこう。

理解の明晰さの第三段階に到達するための規則は、次のようになると思われる。われわれがもつ概念の対象は何らかの効果を及ぼすと、われわれが考えているとして、もしその効果が行動に対しても実際に影響を及ぼしうると想定されるなら、それはいかなる効果であると考えられるか、しかと吟味せよ。この吟味によってえられる、こうした効果についてわれわれがもつ概念こそ、当の対象についてわれわれがもつ概念のすべてをなしている。

つまり、実際の行動に対してどのような影響を与えるかが重要であり、その効果こそが概念なのだという。言葉の「定義」も同様である。それが実際に行動にどう影響するのかを捉えるべきであり、そうでない「定義」は無意味なのだ。

だから「ダイヤモンドは硬い」という観念は、「ダイヤモンドを使って削ると、すべての物質にキズをつけることができる」と表現すべきなのだということになる。これであれば、実際に物質にキズをつけようとしたときにダイヤモンドを使おうという行動につながっていく。物にキズをつけたいという具体的な文脈の中で意味がでてくるのである。こうした実際的な効果に重きを置くというのが、プラグマティズムの本質である。

ある特定の文脈を離れて言葉の定義を議論し、堂々巡りになっているケースも多い。結局それは個人の「感じ」の域を超えないのだとパースは言う。デカルトが考えたように理性によって「真理」にたどり着くことはなく、つねに更新可能性のある「信念」でしかないのだ。

美醜の二のない世界としてのニライカナイ

 

新編美の法門 (岩波文庫)

新編美の法門 (岩波文庫)

 

 

柳宗悦「美の法門」P88-100のメモ。

 

『大無量寿経』に書かれた48の大願の四番目に次のような文言がある。

設我得佛 設(たと)い我仏を得んに

國中人天 国の中の人天

形色不同 形色(ぎょうしき)不同にして

有好醜者 好醜(こうじゅ)有らば

不取正覺 正覚を取らじ

 柳宗悦はここから、民藝における美の論理を取り出す。「もし私が仏になる時、私の国の人たちの形や色が同じでなく、好(みよ)き者と醜き者とがあるなら、私は仏にはなりませぬ」。つまり、仏の国には美醜はない。そこは対立が消失する場所であり、それは「無」や「空」と呼ばれる。この「無」とは、有無の二を超えた「無」であるという。

この世界(此岸)は二つに分かれる。どうすれば、「二に在って一に達する」ことができるだろうか。柳は問う。醜いものの対比としての美しいものではなく、その両者の本性にある美を問うのである。そして、仏教は「すでに一に達している」と教えている。「この世の凡てのものは、漏れることなく、美醜の二のない世界に受取られている」と。仏は審判者ではなく、あらゆるものを受け入れる大悲なのだと。

にもかかわらず美醜に分けてしまうのは、人間の分別である。この分別を超える方法として、論理から離れる方法として、仏教がある。あるがままの「本然の性に帰る」ことである。「自然法爾(じねんほうに)」と呼ばれる境地である。

美しく描こう、美しく作ろうと思った瞬間に、それは美醜に分かれる二の世界に留まることになる。自力で美しさへたどり着こうとしても、多くの人はたどり着けない。「経は説くのである。仏が仏になったということは、凡てのものを美しさで迎えるという契(ちか)いなのである」。醜いまま美しくなるのである。美醜の分かれない境地から世界を見て、無にまで深まったものだけを讃えるべきである。小さな自我や分別を離れた「平常心」から生まれたものを見極めるべきである。

 

「ニライカナイ」という異界は、美醜の二のない世界である。私たちはニライカナイに受け止められている。ニライカナイで取り扱う雑貨には、美醜に分かれる前の一としての美が宿ってほしいと思う。

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新しい形式を生み出す契機としてのワークショップ

 

美術と知能と感性―認知論から美術教育への提言

美術と知能と感性―認知論から美術教育への提言

  • 作者: アーサー・D.エフランド,Arthur D. Efland,ふじえみつる
  • 出版社/メーカー: 日本文教出版
  • 発売日: 2011/01
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『美術と知能と感性』

刺激と反応を客観的に観察し記述する行動主義心理学は、美術教育における内的経験を排除した。ピアジェは、こうした機械論的な行動主義による人間観を乗り越えるべく、認知の構造であるスキーマに注目する認知的発達の理論を導入した。これにより、内的経験としての認知が注目されることになったが、一方でピアジェが感情を伴う美術を低いレベルのものとしていたため、美術教育の領域での限界があった。ヴィゴツキーはより社会的、文化的影響に着目した。人は、文化の影響の内面化することによってより高次の形式を獲得できると指摘した。特に言語の獲得は、外界の認知に大きな影響をあたえるものだった。

しかしこのヴィゴツキーの指摘にも限界があった。すでに文化的に存在しているものを内面化するというこの指摘は、既存の文化には存在しない新しいものの創造するプロセスを説明できないのである。文化による形式の再生産ではなく、形式そのものの創造がどのように起こるのか。認識論の流れから、シンボル処理論、社会文化論、統合理論の三つの取り組みが行われた。統合理論では、シンボル処理論が抱えていた客観主義という課題や、社会文化論のもつ受動的な学習といった課題を乗り越え、主体的に知識は構成されていくと考えた。ここから「複雑でうまく構造化されない分野」の学習という課題が生まれ、認知の柔軟性理論が導かれた。すなわち、まだ形式化されない分野について新しい認知の形式を生み出すプロセスを明らかにしたのだ。

さらに想像的思考の研究において、イメージ=スキーマは知覚と概念をつなぐものとして、身体経験との統合がなされた。身体経験という「複雑でうまく構造化されない分野」としてのイメージ=知覚がスキーマ=概念へと統合されていくのである。認知論から見た美術教育の学習のプロセス、創造のプロセスが明らかにされたのである。

ビジネスの世界での応用

さて、そうしたイメージ=スキーマのような身体経験と概念の統合という芸術的契機は、ビジネスの世界でも必要とされてきている。既存の事業をそのまま継続することは、既存の企業文化を無批判に継続し新しい文化を生み出せない、新しい認識を生み出せないという意味で、ヴィゴツキーと同じ轍を踏むことになる。常に変化し続ける市場環境、すなわち複雑でうまく構造化されない外部環境に合わせて、認知を柔軟に変化させ、新しい形式や新しい文化を創造しなければならないのである。

その方法論として、デザイン思考と呼ばれるイノベーション手法が導入されている。d.schoolでは、デザイン思考プロセスの五段階、「共感」「問題定義」「アイデア創出」「プロトタイプ製作」「検証」として定義している。私は企業内でのデザイン思考の導入を行っているが、そこでは重要な芸術的契機が起こっている。

そのひとつとして、行動主義心理学の枠組みにとどまっていた製品開発手法を認知的なプロセスへと推し進められる点があげられるだろう。従来のマーケティングは消費者を機械論的に扱い、短絡的な刺激—反応を調査することで、商品開発を行っていた。消費者の内的経験は無視されていた。しかし、デザイン思考の「共感」のプロセスにおいては、人々の行動を刺激—反応といったレベルではなく認知のレベルで理解しようと試みるのである。ときにはエスノグラフィと呼ばれる行動観察を行い、顧客の行動から内面で起こっていることに共感をし、商品開発につなげていく。ここで行われている他者への共感は、二重の芸術的な契機がある。ひとつはユーザーを、今述べたように、認知的な存在として捉えることであり、もうひとつ加えるとすれば、共感を通じてユーザーの認知を自分自身の内面へと沈着させ、新しい認知としてスキーマを獲得するという点である。思いもよらない他者の行動をみて、新しい認知の形式を獲得することができるのである。

共感から創発へ

しかし、この「共感」のプロセスは課題もある。どこまで詳細に観察を行ったとしても、当事者の感じている内的経験と同じ経験を共有することはできないという問題である。他者の行動を見て獲得するスキーマは、他者の持つスキーマと完全に一致することはない。同じ美しい物を見て、思わず手にとって見るという行動を取っても、どのような美しさを感じているかということについては、バラバラである。他者は自分とは異なる。安易に「共感」できたと判断するのは、行動主義と同じ過ちを犯すことになる。誤解に満ちた「共感」をもとに行う「問題定義」や「アイデア創出」は、誤ったものになるだろう。

厳密な意味で他者と共感はできないのだという前提をおいたとき、この「共感」のプロセスは、観察して認知するという一方通行のプロセスではなく、新しい認知の形式が他者との間で創発されるという双方向のプロセスへと置き換えられる必要がある。私はここに、即興劇(インプロビゼーション)を導入することで、この問題を乗り越えようとしている。インプロビゼーションにおいては、シナリオのない中で新しいストーリーを紡ぎだす必要がある。しかもそのストーリーは、他者と共創することになる。想定外の他者の行動により、もともと想定した物語は変更を余儀なくされる。物語は他者と私の間で生成され、どちらの意図とも違う、新しいものが創発されていく。

このときの新しい創造物は、私に新しい世界の認知の形式を与えてくれる。他者を観察して得られた認知の形式ではなく、他者との共創によって得られた認知の形式は、本質的に異なる。他者とのダイナミックな関わりの中で生まれた認知の形式は、他者をも変貌させる契機になりうる。この認知が多くの人に共有されれば、文化という構造をもつことになるだろう。インプロビゼーションとは、他者との間に「複雑でうまく構造化されない分野」を意図的に作り出し、そこから創発的にイメージ=スキーマを作り出すプロセスだということができるだろう。

さらに私はここにワールドカフェを組み合わせている。ワールドカフェとは、四人一島に分かれてあるテーマについて語り合い、しばらくしたらメンバーをシャッフルしてアイデアを他家受粉させるやり方である。二〇五〇年の新事業などのテーマを設定し、そこで自由に発想を広げ、その発想を模造紙へとイラストも交えながら書き込んでいく。思いついたものを模造紙に書き込むことで他者からのリアクションを誘発し、イメージを創発していく。途中でメンバーがシャッフルされることによって、さらにその創発の場がダイナミックに変貌していく。そしてそこでのイメージは、参加者全員に新しい認知の形式をもたらしてくれる。

このように、ダイナミックな関係性の中に新しい形式を生み出す契機を設計することで、スタティックな共感による限界を乗り越えられるのではないかというのが、私のワークショップ設計における問題意識である。これは、認知論における社会文化的影響について、文化が認知を変え、認知が新しい文化をつくるという双方向の影響関係を再現し、再認識する契機としても機能していると考えている。