LIFEHACK STREET 小山龍介ブログ

小山龍介公式ブログ

「直接的な贈与」ではなく、「〈場〉を経由した贈与」が負債感を小さくする

先のブログを少し補足しておきたい。

 

www.lifehack-street.com

 

大澤真幸は、『現実の向こう』のなかでこのように書いている。

 しかし、贈与そのものが、より過酷な差別を生み出しうるのです。贈与は、受け取り手の送り手に対する負債感を媒介にして、受け手と送り手の間に支配・従属の関係をもたらすからです。しかし、僕の考えでは、贈与が直接的であればあるほど、贈与がもたらす負債感を小さなものにすることができるのです。

現実の向こう

現実の向こう

 

この例として、「ペシャワールの会」がアフガニスタンで現地の人と一緒に井戸を掘っている例をあげている。現地の人達に近接して、直接的に援助しているから、負債感が減るのだという。

しかし、これは本当だろうか。直接、井戸を掘ってあげたときに、やはり負債感は残るだろう。ここで重要なのは、「一緒に」ということだろう。そして、現地の人達と一緒に、地域という〈場〉に贈与したからこそ、負債感が生まれなかったのではないか。

贈与の宛先は重要である。正確に宛てられた贈与は、かならず返礼を期待されて行われる。負債感を期待して行われるのである。しかし、〈場〉を経由した場合はどうだろうか。井戸をつくったとき、その井戸は、直接渡されるからではなく、その贈与の受け取り手が不確定だから負債感がないのではないか。東浩紀のことばでいば「誤配」されることが前提となっている。偶有性が生まれるのである。

誰が受け取るかわからない。とすれば、返礼も期待できない。そのなかで行われる贈与は、清水先生の言葉でいえば〈与贈〉である。

直接性ではなく、〈場〉を経由することによる偶有性にこそ、与贈の本質がある。

 

f:id:ryu2net:20170722122523j:plain

人にあてて贈与するのではなく、〈場〉にこそ与贈すべきである

f:id:ryu2net:20170722121326j:plain

人に期待すると裏切られることはある。これはしょうがない。そういうものだから。期待するのが間違っていると思う。そういう意味で、過度な期待はせず、しかししっかり関わっていこうという意味で、前回の記事を書いた。 

www.lifehack-street.com

 別の言い方をすれば、贈与を人に対して行う場合において、それが返ってくるという期待をしてしまいがちだが、それは間違っているということだ。贈与は地域を開く鍵であるが、万能ではない。簡単に「余計なお世話」に転じるだろう。

しかし、人に対してではなく地域への贈与はどうだろうか。この場合、場の研究所の清水先生の言葉を借りて与贈と呼びたい。返礼を期待しない贈与のことである。震災後、石巻に入りヘドロかきなどのボランティア活動を行ったが、これは人に対してではなく、あくまで石巻という地域に向けてであった。ヘドロを撤去してきれいになった道をみて、感動を覚えた。その感動が返礼だった。この場合の地域は、〈場〉と呼んだほうがいいだろう。

〈場〉への贈与は、返礼してくれる主体が想定できないから、返礼を求めることもなくなる。その結果、与贈となる。そして〈場〉への与贈は、その与贈そのものが感動というような返礼をもたらしてくれる。震災のボランティアまで話を広げなくても、道のゴミを拾ったり、雑草をきれいにしたりという小さな与贈は、誰もが経験しているだろう。その与贈から、感動というほどでなくとも、清々しさを感じるはずだ。

日本遺産のプロジェクトも、僕は地域の人に会い、地域の人と話を、地域の人に関わっているが、目線はそのさきの〈場〉にある。仮に地域の人に嫌われても(そういうことは実際起こっている。「中央」から「派遣」される「プロデューサー」に好意なんか持たないだろう)、しかし、より本質的には歴史を内包した豊かな〈場〉としての地域に、真正面に向き合おうと思っている。そしてそれは、その瞬間に返礼を受けている。その瞬間に救われているのである。

だからこそ、人にあてて贈与するのではなく、〈場〉に与贈すべきである。

地域に関わる寂しさ

地域に関わるときに難しいのは、基本的に外からやって来る人間というのは、招かれざる客だというところにある。もし地域が平和であれば、外からやって来る人などはいらないのである。地域がうまく行っていないから、「なんとかしてくれるかもしれない」という淡い期待を抱いて「客」を呼ぶ。そういうところにノコノコいくのが、僕の仕事だ。

そのときに、淡い期待に沿えないと、あっさりと呼ばれなくなる。これは慣れているのでなんとも思わなくなったけれども、ちょっとがっかりすることもある。たとえば提供した提案やデザインのお礼もないまま、連絡が途絶えてしまうパターン。それはそれで、しょうがないと割り切るしかない。こちらの力不足でしかない。

一方、こちらの力が役立てそうな場合もある。しかしその場合でも、「七人の侍」と同じで、もし成功した暁には立ち去るしかない。立ち去る準備をしながら取り組むしかない。そういう寂しさを抱えながらの関わりなのである。そして、その寂しさは、人生に本質的に組み込まれているものでもある。

 

f:id:ryu2net:20170707180945j:plain

写真は本文と関係ありません。先日訪れた宍道湖の風景。

 

〈場〉としての日本遺産の可能性

日本遺産プロデューサー派遣事業を通じて日本遺産に関わるようになって二年目。日本遺産の果たすべき役割が、クリアになってきた。

日本遺産というのは文化庁が行っている認定事業。2020年までに全国で100ヶ所程度が認定される予定で、2017年までに54ヶ所が決定している。認定されると3年間の補助金が提供され、それを原資にして整備・人材育成・情報発信などを行っていく。

japan-heritage.bunka.go.jp

認定された地域を訪問してさまざまなアドバイスをするのだが、初年度の地域については、協議会の組成から相談にのることになる。そのときに課題となるのが、地域の巻き込みである。自治体中心となりがちな協議会が、どのように民間活力を引き出していけるのか。多くの自治体で課題となっている。

そのヒントになるのが、場の研究所の清水博先生の〈場〉の思想である。〈場〉への与贈(見返りを求めない贈与)によって〈場〉としての地域が豊かになり、その豊かになった地域から居場所という返礼を受け取る。その円環こそが、個別の個人や企業の命だけでなく、地域全体としての〈いのち〉を育むのである。

f:id:ryu2net:20170606113944j:plain

日本遺産は、こうした〈場〉を可視化するという役割を持っている。もともと、バラバラな点として存在していた有形・無形の文化財を線で結び、さらに面として見せていくことで活用していこうという日本遺産のコンセプトは、そのまま面=〈場〉と言い換えることができる。

ある地域では、近くにある観光地同士、企業同士がお互いに(いい意味での)ライバル関係にあり、お互いにつながっていなかった。そこが「日本遺産」という旗印のもと、ひとつの面としてつながっていく。

そこで問われているのは、「日本遺産から何か得することを引き出してやろう」という収奪の発想ではない。「日本遺産に対してどんな貢献ができるだろうか」という与贈の発想なのである。協議会は地域に対して、「日本遺産でこんな得がありますよ」とアピールするのではなく、「日本遺産を通じて地域をより豊かにしましょう。そのための協力をぜひ」と与贈を呼びかけるべきなのだと思う。

f:id:ryu2net:20170606114507j:plain

(ここに書いたものはあくまで小山個人の私見であり、所属団体、参加プロジェクトの意見ではありません。)

発達という創造活動に導く「頭一つの背伸び」

  この二つの記事の続きです。

www.lifehack-street.com 

www.lifehack-street.com

 ヴィゴツキーが「頭一つの背伸び」と呼んだ発達過程はどのようなものなのか。ニューマンとホルツマンはそれをパフォーマンスと呼ぶ。自分でない人物を演じることによって、自分が何者かであるかを創造する活動だという。環境に対応するために学ぶというのではなく、環境に合わせて「演じ」ながら違う自分へと変わり、同時に環境も作り直し世界を転換させていく。ヴィゴツキーが取り組んだのは、こうした創造のプロセスであり、その創造のプロセスはソロではなくアンサンブルで行われる。このアンサンブルをパフォーマンスと呼んだのだ。

ホルツマンはさらにこれを「非パラダイム主義」だと指摘する。パラダイムは、行為よりも先に思考を優先し、思考によって行為が起こると考える。しかしここでパフォーマンスと呼んでいるものは、そうした思考優位の話ではない。従来の心理学からのパラダイムシフトは起こっているが、これは新しいパラダイムを提示してそのパラダイムに従って行為が変わるとするものではなく、思考と行為とを統合して考える非パラダイム主義なのである。

遊ぶヴィゴツキー: 生成の心理学へ

遊ぶヴィゴツキー: 生成の心理学へ

 

 

分析単位を「行動」から「活動」へと変えることで「成ることの理論」が生まれる

 この記事の続きです。

www.lifehack-street.com

心理学が「行動」を分析単位としてきたが、それは不十分だった。社会文化歴史性を無視することになるし、新しいものを生成する主体としての人間も無視してしまうことになる。行動を単位として研究することによって、人間を変わらないものとして扱ってしまうことになる。

「行動」に代わって、ホルツマンが分析単位としてあげるのが「活動」である。マルクスがそうしたように、個人を社会的存在と捉え、社会によって作られ、また社会を作り出す存在として、人間を「活動する者」と捉えた。

こうした活動は、社会を変え、文化を創造し、歴史を生み出す。そしてその社会文化歴史によって人間もまた変わる。活動により人間と世界が生成変化するのである。ホルツマンはヴィゴツキーの仕事を「心の理論(theory of mind)」ではなく、「成ることの理論(theory of becoming)と捉える。存在の状態ではなく生成に関わるものであり、心理学が「であるもの」の研究から「生成しつつあるもの」の研究に移行する基礎が与えられたのだと指摘する。

 

 

遊ぶヴィゴツキー: 生成の心理学へ

遊ぶヴィゴツキー: 生成の心理学へ

 

 

人間のサブジェクティヴィティー

名古屋商科大学の岩澤先生におすすめされた読み始めた『遊ぶヴィゴツキー』(ロイス・ホルツマン著)が面白い。

物理学が物質を、天文学が星々を研究するようにして、心理学は人間を研究することになった。こうしてきわめて容易に、心理学は人間であることのうち、もっとも魅惑的で重要なこと―人間のサブジェクティヴィティー(主体性、主観性:歴史性、社会性、意識と自己反省意識)―を、このような質を持たない対象のために考案された方法を適用するために放棄したのである。

ここでいう人間のサブジェクティヴィティーとは、客観に対する主観という二元論で捉えるものではない。意味生成活動の主体としての人間である。二元論を乗り越えるためにヴィゴツキーは、科学的探求の方法そのものを追求することになる。彼にとって、探求こそが人間独自の心理活動であり、それを研究するということは、とりもなおさず探求の方法論を研究することでもあった。

ちょっと読み進めてみます。

遊ぶヴィゴツキー: 生成の心理学へ

遊ぶヴィゴツキー: 生成の心理学へ